「ラジカセを投げた餃子屋の少年」が業界を変える高橋英樹氏の人生は、まさに波乱万丈そのものだ。15歳から飲食業界に入り、現在は一般社団法人日本飲食団体連合会の専務理事として、日本の食文化と飲食業界の未来を守るために奔走している。彼の半生には、挫折や困難だけでなく、人との出会いや偶然の機会が彼を成長させ、今の地位に導いたエピソードが数多く存在する。運命的な出会いから始まった飲食業への道福岡県北九州市で生まれ育った高橋氏は、小学生の頃から商売人に憧れていた。母方の実家が業務用酒販店を営んでおり、夏休みには飲食店への配達を手伝うなど、幼い頃から飲食業に触れる機会があった。中学時代は県内でも指折りのサッカー選手として活躍し、いわゆる「スポーツエリート」として将来を期待されていた。実力もあり、私立高校からは推薦の声もかかったが、高橋氏は公立高校への進学を選ぶ。「当時は体格的な限界を感じていました。高校でサッカー漬けの毎日を送っても、プロになれる見込みは薄い。それなら自分の人生を自分で選びたかったんです」中学3年生の頃、先輩からの誘いで地元の餃子屋でアルバイトを始める。サッカーの練習がない土日や長期休暇を利用して働き始めた高橋氏は、厨房の活気と料理を提供する喜びを肌で感じるようになった。「今思えば、あのバイト経験が私のビジネスの原点になっています。お客様の『美味しい』という言葉を直接聞ける喜び、チームで一つのことを成し遂げる連帯感、そして何より結果がすぐに見える即時性—これらは今も私が大切にしている価値観です」高橋氏は大した受験勉強もせずに、偏差値60超の県内トップ3に入る公立高校に合格する。しかし高校に入学後、好奇心旺盛な高橋氏は新たな世界を模索し始める。「高校では帰宅部になったんですが、そうするとやることがなくなる。学校にはあまり行かないし、バイトで稼いだお金で遊んでいましたね。不思議なことに、期末試験はほとんど勉強しなくても、そこそこ良い点数が取れたんです」高校への不登校が続く中、高橋氏と担任教師との間に激しい衝突が起きる。学校にはあまり通わず、バイトをしていた高橋氏だったが、テストの成績は不思議とよかった。それを面白く思わない担任は親を呼び、「親の教育が悪い」と責め立てた。「俺は悪いかもしれないけど、親は悪くないだろう!」激高した高橋氏は、目の前にあったラジカセを投げつけ、大立ち回りとなった。この激しい感情の発露は、後の高橋氏の経営哲学に影響を与える。責任の所在を明確にすること、そして自分の信じる価値観を貫く姿勢は、飲食業界での様々な取り組みの原動力となっていく。名古屋での挫折—人生の岐路に立つ高校を中退した後、高橋氏は名古屋へと向かう。自動車関連の季節工として働き始めるが、環境に馴染めず一度大阪へ逃げ出すものの、再び名古屋へ連れ戻される。様々なトラブルの末、クビを宣告され、名古屋駅で友人と「ジャンケンで勝った方が九州に近い方向へ、負けた方が東京方面へ行こう」と約束。全勝した高橋氏は西へ向かう。なけなしの新幹線代で大阪へ行き、かつてお世話になった保護監察官の家を訪ねるが、そこで彼を待っていたのは、福岡から駆けつけた母親だった。「目が覚めたら母が来ていて、そのまま精神病院に連れて行かれました。『精神病院に入院するか、働くか』と言われ、ハローワークへ行きました」この極限状態での経験は、後に高橋氏が飲食業界で危機に直面した際の精神的支柱となる。どん底からの復活経験が、リスク管理能力や逆境に負けない強さを育んだのだ。修行時代—厳しさの中で見つけた情熱当時16歳の高橋氏は、赤毛に染め、バイク事故で顔に傷があったため、どこも雇ってくれなかった。しかし、一社だけが彼に機会を与えてくれた。それが後に夢笛の先代となる当時の専務だった。「16歳の8月30日、それは私の人生の転機となる日です。それまでは適当に日々を過ごしていましたが、その日、先輩に諭されて『料理の道を真剣に目指そう』と決意しました」この決断を機に、高橋氏の中に「やる気スイッチ」が入る。以前は休みのない労働環境や厳しい上下関係に戸惑っていた彼も、目標ができたことで苦労を苦労と感じなくなった。この経験は、後に彼が人材育成で重視する「目的意識の共有」の原点となった。料理人の世界には「部屋制度」という独特の徒弟制度があった。高橋氏は「あなごや」という部屋に所属し、関西の一流料亭で腕を磨いていく。21歳の時、次のステップとしてシンガポールの高級日本料理店か、大阪の高麗橋にある料亭への異動が決まっていたが、夢笛の先代からマネジメント経営を学ぶ機会を提案された。「その決断が料理人の世界での『破門』につながりました。料理人の世界では、一度部屋を離れると、一流と言われる店では働けなくなるんです」しかし高橋氏は、経営の道を選んだ。この決断は単なるキャリアチェンジではなく、職人としての経験と経営者としての視点を併せ持つことで、飲食業界全体の課題に向き合う姿勢の始まりだった。経営の道へ—人との縁が導いた転機マネジメントの世界に足を踏み入れた高橋氏は、週休二日制という当時の飲食業界では珍しい働き方を取り入れた店舗で経験を積む。昨年対比売上を3年連続で更新し、最高時には前年比200%を超える実績を残した。「当たり前の基準の高さが業績を決めることを学びました。お客様が『美味しい』と感じる基準、店内の清潔さの基準、サービスの基準、すべてが他店より高くないと意味がありません」高橋氏が飲食業の経営を学んだことは、後に業界全体の問題に取り組む際の大きな武器となる。単に料理を作るだけでなく、収益構造や人材育成、マーケティングなど、総合的なビジネス感覚を養うことができたのだ。24歳の時、夢笛の先代が広島県福山市で会社を設立することになり、高橋氏を料理長として招聘する。こうして1994年、高橋氏は有限会社夢笛コーポレーションの創業メンバーとして、新たな一歩を踏み出すことになる。苦難の連続—それでも諦めなかった飲食の道福山での新生活は想像以上に厳しいものだった。新設の会社は資金繰りに苦しみ、高橋氏は初任給がオープン後3ヶ月目からという厳しい条件でも文句を言わず、むしろ自分の貯蓄を資本金として投じた。「当時はビジョンなき出店の無謀さを痛感しました。理念なき経済活動は犯罪であり、経済なき理念は戯言である—この教訓は今でも私の経営哲学の根幹です」会社は徐々に店舗数を増やしていったが、経営陣との価値観の違いから高橋氏は苦悩する。リストラを命じられた際には、自分が閉店後お店の駐車場にゴザを引いて夢を語り合った部下たちを切らなければならない理不尽さに耐えられず、退社を決意する。「私が辞めると言った時、部下たちが一斉に辞表を提出しました。それを見た先代社長が『お前が会社をやるか』と言ってきたんです」こうして34歳で株式会社夢笛の代表取締役に就任するが、そこから待っていたのは債務超過という現実だった。先代から引き継いだ時点で借入金は2億4000万円に達し、経営再建は困難を極めた。「社長になって一週間で資金ショートしたんです。売れるものは全部売りました。店も、会社の車も、自分の車も売り、子どもの生命保険まで解約しました」そんな中、新店舗「なごみ」の常連客となった銀行マンが、高橋氏の情熱と誠実さに惹かれ、協調融資による支援を決断してくれた。この経験から、飲食業で最も重要なのは数字ではなく「人との信頼関係」だということを学んだ高橋氏。これは中学生の頃から大切にしてきた「人とのつながり」が、経営の場面でも活きた瞬間だった。業界を変える—居酒屋甲子園との出会い経営再建の道を歩み始めた頃、高橋氏は大阪の勉強会で山川博史氏(現:これからの時代の・飲食店マネジメント協会 代表理事)と出会う。その縁から、居酒屋業界の地位向上を目指す「居酒屋甲子園」の発足に関わることになった。「居酒屋から日本を変えよう、居酒屋業界を元気にしようという理念に共感しました。当時の居酒屋は『安くて、うるさくて、料理はまあまあ』というイメージでしたが、私たちはそれを変えたかったんです」2006年に設立された居酒屋甲子園は、日本全国の居酒屋が技術やサービス、経営理念などを競い合う場として急速に注目を集める。高橋氏は2008年から二代目理事長を務めることになる。理事長就任の際には、興味深い条件交渉があった。高橋氏は「私が理事長をやる条件は二つ。一つは赤塚元気氏(株式会社DREAM ON 代表取締役社長)が次の理事長を継ぐこと。二つ目は、深見浩一氏(一般社団法人日本飲食団体連合会 執行理事)が専務理事のポジションを受けること」と提案した。この時、赤塚氏は説得のために興味深い比喩を用いた。「世の中には事を起こすタイプ、事を正すタイプ、継続するタイプがいます。徳川家康の前にも織田信長や豊臣秀吉がいたように、事を起こすタイプの次には事をまとめるタイプが必要なんです」これに納得した高橋氏は理事長を引き受け、エントリー数1103店舗、前年比50%増という大きな実績を残した。居酒屋甲子園の活動は、飲食業界だけでなく、さまざまな分野の企業や人材を引き寄せることになる。「私たちの活動を見て、『飲食業って面白そう』と感じてくれる人が増えてきました。特にITや金融などの分野からの転職者は、自分のスキルを活かして飲食業界を変えていこうという意欲に満ちています」異業種からの参入が増える背景には、飲食業界の持つ特性がある。高橋氏は次のように説明する。「飲食業は『結果がすぐに出る』という特性があります。メニューを変えればすぐに売上に反映される。接客を改善すればリピート率が上がる。PDCAサイクルが非常に速いんです。これは他の業界にはない魅力です」飲食業界の未来を守るために—日本飲食団体連合会の設立2020年、新型コロナウイルスの感染拡大は飲食業界に壊滅的な打撃を与えた。時短営業や休業要請、酒類提供の制限など、前例のない規制が矢継ぎ早に飲食店に課されていく。「政府の方針に従わざるを得ない状況の中で、飲食業界の声が十分に届いていないことを痛感しました。飲食業界の声をまとめて政治に届ける窓口が必要だと強く感じたんです」こうして2021年、高橋氏は日本飲食業経営審議会を設立し、さらに日本飲食団体連合会(食団連)の専務理事として、業界の声を政府や与野党、自治体へ届ける活動を開始する。「飲食業界は従事者が440万人もいる一大産業なのに、それらを一括で取りまとめる団体がありませんでした。大手チェーンだけでなく、個人店から中小企業まで幅広い事業者の声を届けることが私たちの使命です」現在、食団連には60を超える団体が加盟し、全国の数万店舗を代表する組織へと成長している。高橋氏は「食べる食文化と職人の文化を未来に繋ぎ、文化的価値の向上と金銭的な価値を向上させる」というビジョンを掲げ、飲食業界の健全な発展に尽力している。食団連の活動は、飲食業界を超えた広がりを見せている。例えば、ITやテクノロジー企業との連携によるデジタル化の推進、金融機関との協力による事業再生支援、農業や漁業との直接取引による新たなサプライチェーンの構築など、業界の垣根を越えた取り組みが進んでいる。「これからの飲食業は、単独では成り立ちません。IT、物流、金融、農業、漁業、観光など、様々な業界との協業が必要です。だからこそ、異業種からの参入者の視点や経験が非常に貴重なんです」高橋氏は、特にデジタル化やマーケティングの分野での人材を求めている。「飲食店の集客やブランディングは、今や完全にデジタルシフトしています。SNSやウェブマーケティングのスキルを持つ人材は、飲食業界で大きな価値を生み出せます」また、データ分析やシステム開発のスキルを持つ人材にも大きなチャンスがあると高橋氏は語る。「在庫管理、販売分析、顧客管理…飲食店には様々なデータがあります。しかし、そのデータを有効活用できている店舗は少ない。データサイエンティストの視点で飲食業のDXを推進できれば、業界に革命を起こせる可能性があります」飲食業の魅力—人との出会いが人生を変える波乱万丈の人生を歩んできた高橋氏だが、振り返ると全ての転機には「人との出会い」があった。中学時代のバイト先の先輩、料理の道への決意を促した先輩、経営の機会を与えてくれた夢笛の先代、窮地を救ってくれた銀行員、全国的なネットワークをもたらした居酒屋甲子園の仲間たち—。「私はほとんど自分で決断したことがなく、出会った人との縁に生かされてきました。でも、その出会いを大切にし、与えられた機会に全力で取り組んだことが今につながっています」高橋氏は飲食業の最大の魅力は「人を繋ぎ、人を育てること」だと言う。「飲食業は単なる食事を提供する仕事ではありません。食を通じて人と人をつなぎ、文化を継承し、社会に貢献できる素晴らしい仕事です。特に若い人たちには、飲食業が持つ無限の可能性を知ってほしいと思います」現在、56歳になった高橋氏は2023年に株式会社夢笛の代表取締役を退任し、Will stage株式会社の代表取締役として、培った経験を活かした飲食コンサルティング事業に注力している。また、一般社団法人日本飲食団体連合会の専務理事として、飲食業界全体の発展に貢献し続けている。「これからの飲食業界は、多様な人材や知見が必要です。他業界での経験や専門知識を持つ方々が加わることで、業界全体がより豊かに、より強くなっていくと確信しています。飲食業の世界は無限の可能性に満ちています。ぜひ一緒に、この業界を盛り上げていきましょう」高橋氏のストーリーは、飲食業界を志す全ての人々にとって、大きな励みとなるに違いない。そして、他業種から飲食業界への転身を考える人々にとっても、その可能性と魅力を示す貴重な羅針盤となるだろう。