危機を乗り越える度に磨かれる — 飲食業界で見つけた本当の自分人が変わる瞬間を目の当たりにできる喜び。これが山川博史氏を飲食業界に引き寄せ続ける理由だ。飲食業界には「1度火がつくと抜け出せない」という不思議な魅力がある。山川博史氏もその1人だ。現在、一般社団法人これからの時代の・飲食店マネジメント協会(通称:これマネ)の代表理事を務める山川氏は、当初、飲食業とは全く違う道を歩んでいた。スポーツトレーナーを目指し、健康や教育に携わることを夢見ていた彼が、なぜ飲食業界に身を投じ、幾度もの挫折を乗り越えて現在の地位を築いたのか。そのドラマチックな経歴と彼が見出した飲食業の本質的な魅力に迫る。偶然の出会いが人生を変える「バイトでマクドナルドに入った高校時代が原点かもしれませんね」と笑顔で語る山川氏。実はこの経験が後の飲食キャリアに大きく影響することになる。「マックで実はオペレーションとかを結構学んで、20代からの飲食ライフにめっちゃ活きました。厨房のオペレーションとかを変えたりとか」本格的に飲食業に触れたのは、23歳の時だった。大阪の社会体育専門学校を卒業後、スポーツクラブのトレーナーとして就職した彼は、先輩方の姿を見て早々に限界を感じ取る。「30代、40代のトレーナーの姿を見て、人を教える仕事をしているのに自己実現できていない方が多いと気づいてしまったんです」そこで、同じような考えを持つ友人たちと起業。しかし「営業」の仕事が自分に向いていないことにすぐ気づいた。「人に喜んでもらいたいという思想があるから、営業とかめちゃめちゃ向いてなくて。自分が気に入っている商品じゃないと、何も売れなかったんですよ」そんな時、飲食店をオープンしたいという先輩から誘いを受け、店舗の立ち上げに参加した。これが彼の飲食業界デビューとなった。「飲食店に入ってみたらめちゃめちゃ自分に向いていて。人に喜んでもらうとか、来たお客様にどういうニーズを満たせば、また来ていただくのかっていうのが、スポーツクラブに似てたんですよ」山川氏によれば、スポーツクラブも飲食店も、同じ空間に異なるニーズを持った人が集まる点で共通している。「痩せたい方もいれば、健康増進したい方、体が不自由になってリハビリしたい方など。飲食店も同じで、各テーブルによって上司から送られているテーブルもあれば、デートのテーブルもあるし。それぞれのニーズを読み取りながら満たしていく」この点に飲食業の魅力を見出した彼は、次第にこの世界にのめり込んでいく。27歳で独立、そして初めての挫折店長として4年間経験を積んだ山川氏は、27歳の時にその店を買い取り、独立。60回の分割払いで2,000万円という買取額だった。「カラオケ付きの洋風居酒屋だったんですよ」と当時を振り返る。彼のオーナーとしての道はここから始まった。独立の契機となったのは、先輩が他の事業に集中したいという意向だった。しかし、現場経験はあっても経営の知識はなく、ここから苦闘の日々が始まる。「お金のことも勉強して、ただ、やっぱり自分たちの仲間がいたので、店舗展開。とりあえず金持ちになろうぜ。とりあえず成り上がろうぜみたいなノリで」と当時を振り返る。急速に業務委託型の店舗を増やしていったが、経営の基礎知識がないまま拡大したため、資金調達は29.8%の街金から2,000万調達したり、委託先のオーナーが飛んだり、未払いがあったりと大変だったと苦労を打ち明ける。結局20代後半から30代前半の3年間は毎日、市場で食材を仕入れ、各店舗に配送しながら業務改善する日々を送ることになった。「配達しながらもう、飲食なんかやんなきゃよかった、なぜやったんだろうって後悔しかないですよね。華々しいデビューを飾ったにもかかわらず、野菜とかを食材を仕入れて、毎日朝から全店に配送しながら改善を3年間やり続けるなんて、こんなことをしたくてオープンしたんじゃないのにって」しかし、そんな苦しい時期でも「やめるという選択肢は全くなかった」と山川氏は言い切る。「目の前のものをどう成功させるか、いろんな問題をクリアしていくかというところに集中していた」という強い意志が彼を支えた。ターニングポイント—リクルート編集長との出会い30代初めの苦しい時期を経て、業務改善に取り組んだ結果、少しずつ経営も安定していく。「業務改善していくとどんどんお店も良くなっていく。撤退しないといけない店とかもわかってくる。ちょっと仕組みっぽくなってくるんですよ」そんな頃、リクルートが発行する飲食業界誌「アントレ」の西日本編集長・山口俊輔氏との出会いが彼の人生を大きく変えることになる。山川氏はアントレ誌を愛読しており、リクルートの営業マンに山口氏を紹介してほしいと頼み込んだという。このタイミングがターニングポイントだし、現在も家族ぐるみでお付き合いをさせていただいています。今でも師匠なんです。現在は大学の教授をされながら企業コンサルをされています。とかしてるんですけど、今も数ヶ月に1回はお時間いただき、いろいろアドバイスいただいたりしています。この出会いから、新たな業態の紹介を受け、投資も受けられるようになった。大阪に客単価5,000円ほどのしゃぶしゃぶ店を出店。「初めてのきっちりしたゼロからしっかり作った店」だったと山川氏は振り返る。その後さらに東京・汐留に1.5億円をかけた大型店舗を展開するなど、事業は拡大の一途をたどる。「このチャンス逃したらもう2度とないなっていうのもあったから、何があってもそれはもう全然怖くもない」と当時の心境を語る。この頃から山口氏の影響を受け、飲食店のコンサルティングやプロデュースの仕事も始めていった。2度目の挫折と再起しかし2011年の東日本大震災が彼のビジネスに大きな打撃を与える。「東京の店は接待需要がメインだったので、震災後は接待も宴会も全ストップになって。毎月600万円ぐらいの赤字が出る」状況に陥った。100坪のしゃぶしゃぶ店と20坪の店舗を2つ同時オープンしていたため、負担は莫大だった。「これはまあ、さすがにもう僕らの力では無理だな」と判断した山川氏は、事業会社に店舗を売却。長年共に歩んできた仲間とも別れ、1人になった。「その1年ぐらい次どうしようかなっていう時に、僕と一緒に会社作りたいというパートナーと、2012年に作ったのが株式会社OICY」再出発した山川氏は、串カツ田中のフランチャイズとして蒲田店をオープン。「串カツ田中の6号店目で蒲田店が僕ら『株式会社OICY』の1号店だった」と語る。串カツ田中との出会いについては「貫さん(串カツ田中の創業者)と昔から知り合いで、6号店の時に失敗したくなかったから、絶対早めに成功店を選択しようというところで」と戦略的な判断だったと明かす。その後、「蒲田、赤羽、浦和、八王子、高円寺と串カツ田中だけで5店舗展開」するなど順調に事業を拡大。コロナ禍前までは順調に事業成長していたという。コロナ前に事業パートナーが不動産事業に集中したいと相談があったので、経営者としても自分がやりたいことにはチャレンジしていこうと話し合い会社のオーナーを変更。その後にコロナ禍が直撃するという試練もあったが、京都の「OICYビレッジ」プロジェクトなど新たな挑戦も続けてきた。「人の変化」という飲食業の本質的な魅力山川氏が何度の挫折を経ても飲食業界を離れなかった理由は何か。彼はその魅力をこう語る。「まず結果が早い。やっぱりやったことに関してのリアクションがすぐ出る。良くも悪くも」そして、最も彼の心を掴んだのは人の成長に立ち会える喜びだった。「勉強ができなくても、飲食店のことを学んで自分で努力したら、喜んでもらう人とか、成果も出るし。それがすごく人の変化がめちゃめちゃわかりやすかったんですよ。ダメなスタッフが良くなったりとか、頑張って変化していく人たちとかチームをずっと見てたから」現在の山川氏は、「これマネ」の代表理事として、若い頃に夢見たスポーツトレーナーとは違う形で、人を導く「コーチ業」を実現している。「飲食に関わっている人たちがめちゃめちゃ素直なんです。だから本当に視点が変わったりとか、自分の可能性に気づいた時に、変化のスピードも早いんですね」彼の現在の使命は、飲食業界で働く人々の将来を明るくすること。「なるべくいい会社に入ってほしいなとか、いい環境じゃないと、どんだけ頑張っても報われない人たちが多いから。そういうふうな環境を作れば、笑顔で見い通しの立つ飲食の人たちが増えるんじゃないかと本気で考え行動しています」5年で訪れる転機、そして次なる挑戦へ山川氏の人生を振り返ると、約5年ごとに大きな転機が訪れていることがわかる。「4年、5年スパンぐらいで波はある」と彼自身も認める通りだ。27歳での独立、30代前半の苦境とリクルート出身編集者との出会い、震災後の再出発、そしてコロナ禍を経ての現在。幾多の困難を乗り越えてきた山川氏が、今考えることは何か。「飲食店オーナーのビジョン実現と課題解決を支援する」ことを専門分野としながら、「飲食店オーナーにとっての『町医者』のような存在を目指している」という彼のビジョンは、自らの経験から生まれたものだ。波乱万丈な経歴を持つ山川氏だが、外から見ると「すごい順調に来た感じに見えちゃってる」と笑う。しかし彼は「今までの経験があるからコーチできるっていうのもある」と、自らの挫折経験が今の仕事に活きていることを強調する。山川氏の物語は、飲食業界の厳しさと魅力の両面を教えてくれる。そして、どんな困難も乗り越える原動力となるのは、自分の本当にやりたいことを見つけ、それに向かって進み続ける情熱なのかもしれない。山川氏はその生き様で、飲食業界で生きる多くの人々に希望を与え続けている。