山崎聡が語る飲食業との出会いと成長の軌跡第1部:偶然から使命へ ― 居酒屋甲子園との出会いまで株式会社Elevation代表取締役・山崎聡氏の飲食業界での歩みは、決して最初から描かれた道ではなかった。むしろ、偶然の連続と出会いの積み重ねが今の彼を形作っている。小中高とバスケットボール一筋で過ごした山崎氏は、高校3年生で初めて飲食業に足を踏み入れた。きっかけは単純明快。兄が飲食店で働いていたからだ。「自分の将来の夢は特になかった。でも兄がやっていた飲食業が身近だったんです」と山崎氏は振り返る。バスケ部のキャプテンとして100人以上のチームを束ねた経験はあったが、明確な将来像はなかった。入念な準備を好む性格から、高校時代に飲食店でアルバイトを始め、調理の基本を学んだ後、大阪あべの辻調理師専門学校へと進学。当時を思い出し「大阪に行きたかったので、試験のない辻調理師専門学校を選んだ」と冗談めかして話す。慎重な準備と計画性山崎氏の用意周到な性格には、幼少期の経験が影響している。中学生の頃に家庭環境の変化があり、自分を取り巻く状況が大きく変わったことで、彼は自分に自信が持てない少年だったという。この経験が、彼を極度に慎重にさせた。「めちゃくちゃビビリなんです。何かを始める前に、まず徹底的に調べて準備しないと不安で仕方がない」と山崎氏は自己分析する。この慎重さが、後の飲食人生で様々な局面を乗り越える原動力になった。バスケから飲食へ ― 没頭する才能山崎氏の原動力は、「ある一定まで行ったら必ず楽しくなる瞬間がある」という信念にある。小学4年生の時にバスケットボールを始め、基礎練習の意味がわからないまま黙々と取り組んだ結果、地区大会で優勝を経験。努力が結果に結びつく快感を知った。「興味はきっかけに過ぎない。「好き」の要因は「興味」からしか出ない。ある程度まで行けば必ず楽しくなる」という哲学は、その後の飲食業でのキャリアにも通じている。飲食との本格的な出会い辻調理師専門学校では、一流の料理人から世界基準の技術を叩き込まれた。「先生達が投げかける言葉に心が震えました。『お前たちは卒業しても腕は一流じゃない。でも一つだけ覚えておけ。俺たちが作る料理は世界基準だ。』という言葉が今でも心に残っています」在学中も飲食店でアルバイトをする傍ら、仲間との交流を深めた。「今も時折連絡を取り合う仲間がいます。六本木の居酒屋の大将も当時の仲間です」と語る山崎氏。人との繋がりを大切にする姿勢は、この頃から培われていた。1年間の修業を終え、調理師免許を手にした山崎氏は新潟に帰郷。故郷でパスタレストランに就職した。運命のいたずらか、その後2年ほどレストランで働いた後、一度飲食業を離れることになる。人との出会いが人生を変える飲食業を離れた山崎氏は、幼い頃からのもう一つの夢だったカメラマンのアシスタントとして働き始めた。しかし、物撮り専門の仕事は想像とかけ離れていた。「一日で1万点の写真を撮ることもあり、コミュニケーションもほとんどなく、3ヶ月で体調を崩してしまいました」この経験から、人と話す仕事でなければ自分には合わないと気づいた山崎氏。「人と接することが自分の仕事だと分かり、やはり飲食業に戻ることを決めました」と語る。しかし、調理の世界では同級生たちが既に大きく差をつけていることを知り、焦りを感じていた。そんな中、友人の紹介で地元の小さなバーでアルバイトを始める。そこで運命的な出会いがあった。常連客だった歯科技工士の社長が、山崎氏を「金の卵」と評し、自身の事務所に招いたのだ。「何故私が『金の卵』なのか聞きたくて社長の元を訪れました。そこで人生哲学を教わり、その後も週に3日ほど給料なしで隣に座らせてもらい、社長の話を聞きました」この師匠との出会いが山崎氏の人生の転機となった。「自分には可能性がないと思っていた私に、師匠は『強すぎても弱すぎても人はついてこない』『仕事を頼まれたらお釣りつきで返せ』など、今でも大切にしている言葉をたくさん教えてくれました」目標設定と独立への道師匠との出会いから2年ほど経った頃、山崎氏は自分の店を持ちたいと話した。すると師匠は「私は25歳で会社を作った。お前が私の話を聞いて、25歳でどうなっていたいか考えろ」と助言した。これをきっかけに山崎氏は「25歳までに店を開業する」という明確な目標を立て、そこから逆算してやるべきことをリストアップ。「おおよそ百個ほどの課題が出てきましたが、一つずつクリアしていきました」と当時を振り返る。この時まで山崎氏の人生は、主体性に乏しいものだった。「消去法で選んできた人生でした。自分から何かをやりたいと思って動くことはなく、置かれた環境でベストを尽くすタイプだった」と自己分析する。しかし、師匠との出会いで初めて自ら人生の目標を設定し、それに向かって進む体験をした。山崎氏はこう語る。「20歳の時は25歳の時にどうなっていたいかを書け。25歳になったら次は30歳だ。30歳の時にどういう自分になっているか。これは何かこういう仕事をしているとかじゃなく、人間性の話だと師匠は言いました」「Soi」開業と漫然とした日々計画通り、25歳で新潟市万代エリアに居酒屋「Soi」をオープン。「Soi」とはタイ語で「ストリート」「文化圏」などの意味があり、「何の変哲もない通りから繁盛店を作れたらかっこいい」という思いを込めた。オープン当初は兄も加わり、順風満帆な船出となった。しかし、30代に入ると新たな壁にぶつかる。「25歳のなりたい自分には成れたけど、30歳のなりたい自分が見えない。夢がないまま日々を過ごしていました」この頃の山崎氏は、安定はしていたものの漫然と日々を過ごしていた。飲食業の他にもラジオDJなど様々な仕事を掛け持ちし、器用にこなしていたが、明確な方向性は見えていなかった。「店舗を分けて、兄も独立して、チームもできて、自分は何をやっているんだろう」という思いが募る中、売上も徐々に下がっていった。危機感から居酒屋甲子園との出会いへ転機は2007年6月、梅雨の閑散期にやってきた。「カウンターに一組、テーブルに一組しかお客さんがいない中、アルバイトさんが大きなあくびをした瞬間、『このままでは潰れる』という危機感を覚えました」山崎氏は危機的状況で本気になるタイプだ。「会社が傾きそうな時に、本当に大切にしているものが見つかる」と語る。この危機感を原動力に火がついた山崎氏は、どうすればいいか分からないまま、仲間に相談を始めた。そして辿り着いたのが「居酒屋甲子園」だった。初めて見学に行った時は、「大声を出して何をやっているんだ」と距離を置いたが、同年代の経営者たちの熱量に圧倒された。特に同い年の赤塚元気氏のチームマネジメントには衝撃を受け、「この人には勝てない」と嫉妬すら感じたという。「初見の居酒屋甲子園はアンチに近い感情でしたが、赤塚元気という人がすごいと思いました。数か月後には名古屋の全店舗を見に行き、彼と親しくなったんです」理念との出会い居酒屋甲子園で山崎氏が最も衝撃を受けたのは「理念」という言葉だった。「理念って何だろう?大きな会社が掲げるものだと思っていた」と当時を振り返る。帰郷後、お寺の住職を務める常連客に相談すると、明治維新に関する本を一式プレゼントされた。それらを読み込んだ山崎氏は、理念の重要性を理解。「理念がないから、自分はただ生きているだけ、ただ働いているだけだったんだ」と気づく。「背骨をどうやって作るか」を考え始めた山崎氏は、最初は憧れる人の理念を真似ることから始めた。「とりあえず一片も間違わず真似しようと思って実践したら、組織がどんどん変わっていきました」こうして山崎氏は、「私たちの仕事はお客様を喜ばせることです」という最初の理念を掲げ、飲食業に対する姿勢を変えていった。これが居酒屋甲子園との出会いがもたらした、山崎氏の人生における重要な転換点となった。その後、自分自身の理念を模索する道のりが始まる。店舗を増やすことに迷いが生じた35歳の時、居酒屋甲子園の第三代目理事長・松田真輔氏に相談。そこで「自分理念」という考え方に出会った。人生のゴールを自分自身で決めるという、それまでにない発想に触れた山崎氏は、何日も何週間も自問自答を繰り返した。「自分は何のために生きているのか」「何をするために生まれてきたのか」。そんな問いの先に見つけた答えが、後の山崎氏の人生の指針となる自分理念だった。しかし、その内容と山崎氏のその後の飛躍は、第2部に譲ることにしよう。(第2部に続く)