デザインの力で飲食業界を変革する男のユニークな軌跡「食べたら美味しいだけ」では足りない時代2020年春、東京都内のあるレストラン。広々としたテーブルに並べられたメニュー表に来店客が目を落とす。写真はシズル感あふれ、説明文は短く洗練されている。無意識のうちに客は最もお店が売りたいおすすめの商品を選択している。この精緻な「おすすめ誘導」を設計しているのが、サキアジ株式会社代表取締役の谷口泰崇氏だ。食べログや SNS 全盛の時代に、リアルな接点であるメニューブックの力を最大化する「メニューデザインの第一人者」として、500社以上の飲食店の売上向上に貢献してきた。しかし、谷口氏が今日のポジションに至るまでの道のりは、決して直線的なものではなかった。相撲部の少年から始まり、工場勤務、アパレル販売員、そして外食チェーンのアルバイトと、一見すると脈絡のない経験が積み重なって、今の谷口氏を形作っている。土俵から始まった異色の人生「小学校から中学まで6年間、相撲部でした」奈良県橿原市に生まれ育った谷口氏は、相撲発祥の地と言われる奈良の伝統と環境の中で育った。小学校にも中学校にも土俵が設置され、相撲部の活動が盛んな地域だった。谷口少年は中学時代に団体戦で全国大会に出場するほどの腕前を持っていた。身長160cmほどの谷口少年は、体重75kgの堂々たる体格で土俵に立っていた。中学3年生の時、同級生の多くは脇毛が生え始める中、谷口少年だけが生えていないことに密かに悩み、それが思春期特有の恥ずかしさを増幅させた。それでも、当時は若貴ブームや千代の富士、曙など個性的なスター力士が多く、相撲はある種のカリスマ性を持つスポーツだった。高校進学時、谷口氏は重大な決断を迫られた。近畿大学付属高校からは相撲での推薦入学の話もあったが、このまま相撲を続けることが将来のキャリアにどう影響するかを真剣に考えた。「将来のキャリアを考えると、別の可能性も探してみたいと思ったんです」その決断は、その後の人生を大きく変えることになる。高校に入った谷口氏は、自らを変えるべく猛烈に体を絞った。ジムに通い、運動を続けた結果、体脂肪率は信じられないほど低い、わずか4%にまで落ちた。しかし極端すぎる体質改善は、風邪をひきやすくなるなど健康面での問題も引き起こした。「ちょっと具合が悪いなと思って、普通に戻しました」この極端な変身は、後に谷口氏のビジネスアプローチにも見られる特徴だ。何かに取り組むとき、中途半端ではなく、徹底的に突き詰める姿勢。ファッションと反抗心——デザインへの目覚め体型が変わった高校時代、谷口氏の興味は奇抜なファッションへと向かった。着物をリメイクしたモード系の服装や、前髪がガタガタになっていたり、一部分だけ髪を紫や青に染めるなど、個性的なスタイルを貫いた。「東京方面にもそういう集団はいたはずですけど、ファッション誌にも載ってました」高校卒業後、谷口氏は大学ではなく専門学校でグラフィックデザインを学ぶ道を選んだ。しかし、ここでも谷口氏の人生は直線的には進まなかった。専門学校2年目、アルバイトで入った古着屋での面接がきっかけで、バイトのつもりが正社員として働くことになってしまう。親には黙って「学校に行っている」と偽り、早朝5時に起き、夜11時まで働く激務の日々。店長のパワハラと過酷な労働で、ついには血便が出るほど体調を崩した谷口氏は、やむなく退職する決断をした。このアパレル業界での経験は、谷口氏のキャリア観に大きな影響を与えた。先輩たちの姿を見て、自分の将来について改めて考える機会となったのだ。「当時の経験から、もっと広い世界や多様な可能性を探りたいという気持ちが強くなりました」工場勤務で得た「時間の価値」という気づきアパレルの反対側にある仕事は何かと考えた谷口氏は、「給料もそこそこ良い」という理由で半導体工場での勤務を選んだ。ある大手電機メーカーの関連企業で、21歳頃にはすでに月収30万円ほどを得ていた。しかし、完全防護服を着用し、おしゃべり禁止、周囲とのコミュニケーションが限られた環境での作業は、精神的な孤独感を深める結果となった。「12時間交代で、完全防護服、おしゃべり禁止という環境でした。周囲とのコミュニケーションも非常に限られていて、精神的にも厳しい状況でした」この環境で谷口氏は重要な気づきを得る。「時間を売ってるだけだなと思ったんです。自分の時間をただ単に売ってるのが、もったいないなと」この「時間の価値」への気づきは、後の谷口氏のビジネス哲学に大きな影響を与えることになる。飲食業界との運命的な出会い何か新しいことを始めたいと考えていた谷口氏の元に、ある日オープニングスタッフの募集が舞い込んだ。それは当時人気を博していた外食チェーン店だった。「倍率50倍くらいだったんです。オープニングスタッフは特に人気でした」見事採用された谷口氏は、そこで約4年間サービススタッフとして働く。この経験が、後の谷口氏のキャリアを決定づけることになった。「めちゃくちゃ楽しかったですね。今の自分の素地を作ってくれたのはその経験だと思います」接客の楽しさ、飲食業界の魅力に目覚めた谷口氏だったが、アパレル業界での経験と同様、ここでも将来の姿に不安を感じる瞬間があった。店内のバーカウンターを任されていた社員が、夜中の2時頃、疲労の色濃い表情でグラスを拭いている姿を見て、将来の自分の姿と重ね合わせ、別の可能性も模索してみたいと考えるようになった。そんな中、谷口氏に転機が訪れる。そのチェーン店での上司だった人物が、退職後に谷口氏を飲食専門のデザイン会社に紹介したのだ。「デザインも好きだし、飲食も好きだし」という二つの情熱が交わる場所として、メニューデザイン研究所への入社を決めた谷口氏。25歳の時だった。そこでデザイナーとしてスタートするはずだったが、入社わずか1ヶ月で営業部門に異動となる。「なぜデザイナーで入社したのに営業に?と言われたのが、『デザイナーは外に出て営業のこともわからないといけない』と。一気通貫した仕事をちょっとやってみろって」「デザインの価値」を数字で証明する挑戦営業として様々な飲食店経営者と接する中で、谷口氏は深い疑問を抱くようになった。「デザインを売るということにすごく抵抗があって、結局デザインによってもたらされる成果って何なのか」その答えは明快だった。「店舗の売上と利益にどれだけ貢献できるか」という一点だ。谷口氏はメニューデザインを変更した後の売上や利益の変化を徹底的にヒアリングし、データを収集。デザインの効果を数値で実証する方法論を構築していった。17年間の間に、谷口氏が手がけたメニューデザインの数は450社以上。そこで蓄積された知見と実績は、谷口氏を業界でも稀有な存在へと押し上げていった。転機は2020年。長年培ってきた経験と知識を基に、自身の会社「サキアジ株式会社」を設立する。社名の「サキアジ(先味)」には、深い意味が込められていた。「飲食店における、先味、中味、後味の中でも、デザインで表現できる先味(SAKIAJI)。お店のウリやコンセプトを消費者に伝え、世の中から『食べたら旨いと分かる』という店主をなくすことを使命に起業しました」消費者心理を読み解く独自の視点谷口氏の手法の成功例の一つに、大阪のあるお好み焼き店での取り組みがある。観光客の増加に伴い、「お好み焼き一枚を二人でシェアして水だけで帰る」という客が増え、客単価が大幅に下がる問題が発生していた。谷口氏は、お好み焼き店での理想的な楽しみ方を知らない観光客向けに「初めて来た人用のメニュー」を考案。アルコールでの乾杯から始まり、お好み焼きが出てくるまでの間に前菜を楽しみ、最後は焼きそばやデザートで締めくくるという「楽しみ方の流れ」を提示した。「ヒアリングベースでいくと、確実に一品類の出品数は上がったということで、客単価もアップしました」この事例は、メニューデザインが単なる「見た目の良さ」ではなく、消費者行動を戦略的に導く「ランディングページ」のような役割を持つことを証明している。デザイナーではない「デザインディレクター」という立ち位置意外なことに、谷口氏自身はフォトショップやイラストレーターを使った実務的なデザイン作業はほとんど行ってこなかった。「僕、デザイン一切やってないんですよ。ウィンドウズだし、フォトショップもイラレも僕のPCには入ってない」ここに谷口氏の最大の特徴がある。自らデザイナーとして制作するのではなく、デザインディレクターとして全体の方向性を示し、効果を最大化する戦略を構築する役割に徹してきたのだ。「完全にディレクターに寄り切ったディレクターです」営業経験17年、デザインディレクション実績450社以上という経歴が、谷口氏の独自のポジションを確立している。現在はレストランテック協会の顧問としても活動し、飲食業界のデジタルトランスフォーメーション推進に尽力。年間50回以上のセミナーで3000名以上に講演する傍ら、特定の焼肉店ではサービススタッフとして現場に入ることもある。「接客がめちゃくちゃ上手いんです。100%ファンにはできています」飲食業界が秘める無限の可能性谷口氏のキャリアから見えてくるのは、飲食業界の持つ多様性と可能性の広がりだ。相撲、ファッション、工場勤務、接客、営業と、一見すると関連性のないように思える経験が、すべて飲食業界での成功に結びついている。「飲食の世界観がめちゃくちゃ好きだし、人対人というところもめちゃくちゃ好き」飲食業界の魅力はまさにそこにある。食事という人間の基本的な営みを通じて、人と人とのつながりを創出し、体験価値を高めていく。そこには単なるサービス業以上の創造性と可能性が広がっている。谷口氏のような多様なバックグラウンドを持つ人材が活躍できるのも、飲食業界の大きな特徴だ。こだわりのあるフードやドリンク、空間デザイン、接客サービス、マーケティング、デジタル化まで、あらゆる専門性が求められる総合的な産業だからこそ、個性や経験を存分に活かせる場がある。飲食業界は今、デジタルトランスフォーメーションの波を受け、急速に進化している。谷口氏のように異業種の知見を取り入れ、従来の常識を覆すような発想ができる人材が求められている。「食べたらうまいとわかる」だけでなく、「来る前からうまいとわかる」店づくりを支援する谷口氏の挑戦。その原点には、中学生の相撲部時代から培われてきた「極めることの価値」があるのかもしれない。どんな道でも、真剣に取り組めば必ず自分の力になる——谷口氏のキャリアが教えてくれる最大の教訓だ。